昨日今日はずっとそのことについて考えていた。やや身に覚えがあるのは私が「セックスレス」や「ダブル不倫」といった性的な内容を含む記事をよく書くからだ。
私は「セックスレス」を「よくない」と捉えて、それを防ぐにはどうすべき?という観点で日ごろから考えるし記事を書く。ただ人によってはそれは「カップル像の押しつけ」であって「よくない」と捉えるのがそもそも問題だと思う人が少なからずいる。
ただ私は自分がそうなったら困るし、困っている人がいるのは確かなので、そういう意見があることを知りつつ、発信する。この点について、「価値観の押しつけ」「(レスの夫婦を)追い詰めている」と私のスタンスを批判するのはその人の権利だし、その批判に対してどう対処するかは私の自由。
一方で職場において「セックスレスはよくない」と発言するのはセクハラで、それは性的な内容を含んでいるのと価値観の押しつけがあるから。特に上司や部下の関係だったりする場面では絶対NG。私が上司だったら断固として注意する。
このように1対1・職場のような場とメディアで不特定多数にむけて発信する場合というのはずいぶん違うと思っていて、例のはあちゅうさんの「童貞いじり」について、それはお前がやられてたことと同じだ、というのはちょっと違うんじゃないかなあと思っている。
一方で「童貞いじり」がセクハラか?というとそれはセクハラだなあと思っている。更に私がよく書く「セックスレスを防ぐには」も受け取り手によってはセクハラだなあと思っている。で、よっぴーさんが、
ヨッピーさんやはあちゅうさんは長文書く前にただ一言「セクハラはどのようなものであれ絶対にダメ」と言うべき - この夜が明けるまであと百万の祈り
叩かれるだろうけど「セクハラ絶対やらない」とは言えない。自分の言動を他の人がどう受け取るかを予知するのは不可能なので。言ったらウソになるし。もちろんそのための努力はします。
2017/12/20 13:06
書いているこのコメントはほんとそのとおりで、相手によってどう受け止められるか分からない以上、絶対しない、なんて言いきれない。言い切れる人がいるとしたら、それこそ「セクハラ」て何かを理解できていないんじゃないかと思う。
♯metoo の流れが童貞いじりの話に置き換わってはしまったけれど、「受け取り手が不快か否か」がセクハラな定義な訳で。当初はあちゅうさんが言っていた「(童貞いじりについて)自分には愛があるからセクハラじゃない」やよっぴーさんの「はあちゅうさんがやられたことと、はあちゅうさんの童貞いじりは問題の深刻さが違う」てのは「お前セクハラわかってないやん」という別の問題提起にもなって、まあそれはそれでありなのかなと私は思う。
ただ「不快に思う人がいる内容を不特定多数について発信しちゃいけない」ていう今のネット世論の風潮について、私はそうじゃないと思っている。「童貞」を面白おかしく捉えることで傷つく人がいる、というのを分かった上で、それでもなお発信するのは本人の自由だし、それについて傷ついた、やめて欲しい、と抗議するのも自由。どうするかを判断するのは個人ブログの場合はその個人だし、メディアに掲載されているのであれば、メディアが判断すること。そして何を基準に判断するか、というと、それを発信するメリットと、デメリットなのだと思う。
ちなみに来週あたりに私が「出生前診断」を受けたことについて書いた記事が出る。私はこの記事をかなり覚悟して書いていて、というのも、私は結果が「陽性」だったら中絶しようと思って出生前診断を受けたからだ。この決断そのものが、ダウン症の方やそのご家族を傷つけると言われると、そうだろうなと思う。
それでも私は受けるかどうか迷っている人に「私はこう思う」を伝えたいから書くことにした。私の出生前診断に対するスタンスにがっかりする友人もいると思うし、ネットでも色々言われちゃうかなあというのは覚悟している。それでも発信するメリットがあると思うから、書いた。
「童貞いじり」についても、同じだと思う。だから不快に思う人は「不快だ」と大きな声でいえばいいし、そしてそれを受けてもなお童貞をいじる意義やメリットがあるんだと思うなら、引き続き発信していけばいいんじゃないか。
「童貞」をいじることについて「セクハラ」と思う人が多いという事実を受け止めてどうするか。私は「不特定多数への発信」を今後どうするかは正直本人の問題であると思いつつ、「セクハラじゃない」という反論は違うなあと思っている。まあ職場だったらセクハラでFA。自分が上司なら厳重注意する。
— makicoo SATO(さとうまきこ) (@makicooo) 2017年12月20日