成宮寛貴さんが芸能界を引退されるのだという。
成宮寛貴さんは俳優として、というよりは、人間として、尊敬している。両親を若くして亡くされるという局面で、人生に絶望する人は少なくない。そんな中、成宮寛貴さんは、弟さんを自分が育てるという気概をもって、中学に通うことを辞め、働くことにした。私は何かのテレビ番組で成宮寛貴さんが「つらくなかった?」と聞かれた際に答えた
「一生懸命だったので。その状況は変えられないから、そこから上手く上がって行くしかない」
という言葉にすごく感銘を受けた。世の中にはどう考えたって理不尽なことが、少なからず起こる。そんな時に運命を呪うだけでは何も変わらなくって、その状況を受け入れて、先に進むしかない。ただそこで、ちゃんと一歩を踏み出せる人というのはそんなに多くなく、だからこそ成宮寛貴さんのような「前例」は世の中にとって財産だと思っている。心に決めたとおりに、ちゃんと弟さんを大学院まで行かせて、そして自分も俳優として社会的に成功して。そういう人がいる限り、自分にたとえ今後どんな不運がこれから訪れたとしても、前を向いて生きて行ける気がするからだ。
そんな成宮寛貴さんが、引退に際して寄せた文章の中に、「この仕事をする上で絶対に知られたくなかったセクシャリティ」という一節があった。
この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな
部分もクローズアップされてしまい、このまま間違った情報が
拡がり続ける事に言葉では言い表せないような
不安と恐怖と絶望感に押しつぶされそうです。
両親の死に負けずに立ち向かった成宮寛貴さんをもってしても、「セクシャリティな部分」は非常に負担なものなんだなということが、胸にずしんときた。つい数ヶ月前にもアウティングが原因で自殺してしまった人がいた。今回の引退はそれだけが原因ではないと思うけど(やっぱりあの写真は、薬をやっていないと突っぱねるには厳しいだろう)、ただ、たかが「性的に好きなタイプ」の嗜好で、こんなに心が痛む世の中じゃなければいい、というのが常日頃、私が思うことだ。
そんな世の中を変えてしまうかも?と今私が大注目しているのが「大島薫」だ。
男性ですが女性用マイクロビキニを手に入れたので自分で着ました。 pic.twitter.com/NpkauEqch7
— 大島薫 (@Oshima_Kaoru) 2016年12月8日
ホリエモンとの手つなぎデートをスクープされて一躍「時の人」になった大島薫。「パンセクシャル」という好きになった相手が男だろうが女だろうが気にしないという性的嗜好の持ち主。そして女装したり男装したりする。
大島薫が出ている 「ガチレズな上原亜衣と大島薫に混じって3Pしちゃいました!」というAVが、ここ最近みた映像の中で、私にとっては一番衝撃的だった。なんというか、大島薫は男でもあり、女でもあるのだ。女性に徹する訳でもなく、男性に徹する訳でもなく、すごくランダムに、性別を飛び越えるセックスをする。
このブログでも何回か取り上げているように、雨宮まみさん、二階堂奥葉のように「女性」であることに苦しむ人たちがいる。そして成宮寛貴さんのように、性的マイノリティであることに悩む人がいる。そんな中、大島薫の存在というのは悩める人たちの生きるヒントであるように思う。大島薫のセックスをみると、男/女ってなんなんだ?そんな気持ちがする。
大島薫の言葉で心に残っているものがある。
四角形を想像してみてください。この四つの直線のどこか一辺に、角を一つ増やすと五角形になります。そうして角をどんどん増やしていくとだんだんとその形は丸に近づいていくはずです。角を無限に増やすことで、むしろ角がなくなったような見た目になってしまうわけですね。
ボクはいまこの現象が、世の性の認識に起きているような気がするのです。結局「人それぞれ」なんだというありきたりな結論を導き出すためなら、最初から何かに区分けする必要はないのに。
名前を付けただけで理解できるほど、単純なものではないんです。ノンケとホモとゲイとレズビアンとバイセクシャルとニューハーフとオナベと女装とオカマと変態。つまるところ、我々人間は。
たぶん、もう少し時間はかかるのだと思う。
だけど、大島薫がいうように、私達は本当はそんな単純にラベリングできるような存在じゃない。「女」と一口に言ったって、ずいぶん違う。そしてきっと、性的な嗜好であったとしても。
いつか区分することにみんな嫌気がさして「まあ、人間だよね」。そんな共通認識がもてる世界になったらよいなと思っている。