今年の5月に子どもが産まれてから考えが変わったことのひとつに、他人の性癖嗜好に対する思いがある。私は元々LGBTの友人が多く、風俗ライターを一時期していたりもし、他人の性的嗜好にはかなり寛容な方だと思っていた。
ただ下世話な話、女の子を授かってはじめてオムツをかえる時、あまりにも産まれたての子の下半身が「女」であったことに衝撃を受けた。そしてそれまではペドフィリア(幼児性愛者)はかなりの少数派だと思っていたのだけれど、子の下半身をみてから、そんなことはないのかもしれないと考えるようになった。
それ以来、巷で小さな女の子の性的被害の話をきくたびに、心底背筋が寒くなる。うちの子もいつかひとりで出歩くようになる。そんな時、ペドフィリアからどう自分の子を守ればいいのだろう?
現実問題、ペドの嗜好をもっていたとして、生身の小さな女の子に全員が手をかけるかというと、そんなことは決してない。女子高生好きの人は女子高生をみたら性欲を抑えられなくなる訳ではないのと一緒だ。対象に対して性的興奮を覚えるかということと、対象の意にそぐわず行為をするかは本来はまったく別の話なのだ。
ただこの記事を読んで、まっさきに考えたのが、これがLGBTじゃなくてペドフィリアだったら?ということ。書き手の小野美由紀さんはこの寄稿された記事の中で
あなたと私は違うし、苦手ではあるけれど、互いがこの世界に、この共同体に存在することを認め、そうっとしておく勇気を持つこと。
と書かれている。それはまったくその通りだと思うものの、これがなかなか難しい。もし男友達から「自分はペドフィリアだ」と告白されたとして、私は今までどおりの態度で彼に接し、そぅっとしておく勇気を持てるのか。同じ年頃の子を持つ親に「あの人はペドの傾向がある」とそう伝えたくなってしまわないだろうか。
自分とは異質な人間、話し合っても根幹のところで理解できない人間を、それはそれとして、そうっとしておく勇気が、今の世の中においては必要なのだと思う。
それは品性の問題であり、知性の問題でもある。
そう、それは品性の問題であり、知性の問題。ただ自分自身のペドフィリアに対するなんともいえぬこの「恐れ」の気持ちに気づいてから、それは自分が今まで思っていたより、ずっと難しい、そんな風に思っている。