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makicoo thinks

2017年のテーマは「アラフォーを楽しむ」。77年生まれの皆さん、素敵な40歳になりましょう\(^o^)/

「人は見た目で判断される」病のマキ。

Kindle Unlimited を遅ればせながら契約し、さて何読もうかなと対象の本をみている中ふと「24人のビリー・ミリガン」という本を思い出した。これは「ビリー・ミリガン」という実在した多重人格者の半生を綴った物語。私はこの本をきっかけに「多重人格」にとても興味を持ち、当時関連した書籍をけっこう読んだ。

 

「多重人格」の治療がなかなか困難なのは、深く心を痛めるようなことがあった際に「別の人格の経験とする」というのがある意味合理的な解決方法だからだ。耐え難いような屈辱や苦しみを受けた時、人はその現実から逃れたいと思うのだけれど、もしそこに「箱」のようなものがあり、その記憶全てをそこに託せるのだとしたらどんなに楽になるだろう。

「多重人格」というのはいともたやすく「箱」を創り出し、記憶を分散させることができる能力である。そしてその治療が困難なのは「治療する」ということは苦痛の記憶が詰まった箱をあけていき、そしてそれを自分のものだと認めることだからである。

 

ここ数日、一部の人を苦しめる「人は見た目で価値を判断される」という価値観について考えていた。もしかしたら、それは「人は見た目が全てだ」と思っていた方が都合がよい、多重人格者における「箱」のようなものなのかもしれない。

「自分には価値がない=それは見た目が悪いからだ」と結論づけてしまうことで、「自分には価値があるのか」という問いから逃れることができる。そして「見た目」という先天的なもののせいにしておくことで、原因は他律的~自分ではどうしようもできない~となり、それ以上考えずにすむ。

 

時折私に「大してかわいくない癖に」と言ってくる人たちがいる。大してかわいくない癖に、に続く言葉は「調子に乗ってる」「ちゃらちゃらしてる」など、さまざまなバリエーションがあるのだけれど、結論、大してかわいくない私がかわいい人のようにいい思いをしているようにみえることが不快なように思える。私のような「大してかわいくない人が男性といい思いをしている(ようにみえる)」は「人は見た目で判断される」とだけ思っていればよかった価値観をゆるがす、不都合な事実なんではないか。

 

「人は見た目で判断される」と思っている人ほど、人を見た目で判断しているように思う。あの人が好かれるのは見た目がいいからだ、あの人は見た目がイマイチだから価値がない。そんな色眼鏡で人を見ているから、時折現れる私のように大してかわいくもないのにいい思いをしているようにみえる人間に、心がざわつく。

 

思うにそれは病気である。現実の世界を見渡せば私のように「大してかわいくもないがいい思いをしている(ようにみえる)」人間が、星の数ほどいる。「人は見た目で判断される」は必ずしも真ではないことは明白なのに、それを頑なに認めないのは、「人は見た目で判断される」という世界が、もはや居心地のよい「箱」になっているからなんじゃないだろうか。

 

もし私が「大してかわいくもない癖にいい思いをしている」のだとすると、それは私が他人に対して概して好意的だからだろう。人は自分のことを好意的に受け止めてくれる存在が好きである。

 

人から好かれる極意があるとしたら、本当にそれだけだ。